現代日本〈映画-文学〉相関研究会

Studies in Correlation between Modern Japanese Cinema and Literature

第3回 現代日本〈映画-文学〉相関研究会 開催のお知らせ(終了)

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【研究発表】

『小津的なユーモア』をめぐって―映画と文学―
早稲田大学助手     宮本 明子

映画から折り返す『或る女』
北海道大学大学院教授  中村 三春

太陽族映画」を再考する
二松學舍大学非常勤講師 志村三代子

【特別研究発表】

女性文芸映画というジャンル ―1960年代日本映画の変容について―
立命館大学教授     中川 成美

【講  演】

カリガリからドクラ・マグラへ
青山学院大学教授    佐藤  泉

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【発表要旨】

『小津的なユーモア』をめぐって―映画と文学―
宮本 明子

 小津安二郎の後期作品にみとめられる「小津的なユーモア」は、蓮實重彦『監督 小津安二郎』に一部言及されている。たとえば『彼岸花』の小料理屋で男たちがくりひろげる会話にその一面がみてとれるというものである。蓮實も指摘するように、こうした会話に加えて、「一拍ずれたリズム」や「呼吸」など、「小津的なユーモア」には多様な要素が関与しているといえるだろう。本発表では、小津の後期作品に登場する男たちの会話と、俳優に対する演技指導の方法に焦点をあて、「小津的なユーモア」と文学とのかかわりを考えてみたい。すでに『秋日和』の会話との対応関係をみた里見弴の短篇を手掛かりにすると、映画の会話は単調かつ平板なものとして展開する。演技指導に際しては俳優の動きや笑いを抑制することが試みられており、小津はこれを「人間」を描くことと語っていた。俳優が「演技」することを避け、テクストを読むことに徹するという方法は他の作家の演出論にも通じるが、そのとき「小津的なユーモア」、また小津の映画に文学はどのように関与していたといえるだろうか。

映画から折り返す『或る女』
中村 三春

 映画『或る女』(1954、大映豊田四郎監督・八住利雄脚本)について、公開後、飯田心美(『映画評論』11-5、1954.5)は、「その出来上り具合はまことに寒心すべきもので『文芸映画』製作という仕事がいかに慎重を要すべきものであるかを如実に示め(ママ)している」云々と酷評している。「寒心」とは「ぞっとする」という意味である。その根底にあるのは、有島武郎の原作を「リアリズム小説の力作」と見なす観点であり、原作の持っている重さを映画は表現しえていないという批判である。特に主人公「葉子の反逆性」の造形が不十分であるとする。この飯田のような意見が一般的であるのか、これまでこの映画がまともに論じられたことはない。しかし、第二次テクストは原作を十全に再現することのみをその評価の基準とすることはできない。しかも、今日までの有島武郎研究の積み重ねから見れば、木部と葉子の夫婦生活に重点を置いたり、倉地の地下生活(国際スパイ)を明白に描いたりする点において、映画は小説テクストの極めてユニークな解釈となっている。第1回ラウンドテーブルで行った問題整理に従い、有島武郎研究者から見た映画『或る女』論を試みてみたい。

太陽族映画」を再考する
志村三代子

 本発表では、1956年に公開された「太陽族映画」を取り上げ、主に〈文学性と興行価値〉という観点から太陽族映画の歴史的意義を検証する。周知のとおり、1955年『文学界』7月に掲載され第34回芥川賞を受賞した、石原慎太郎の『太陽の季節』は、若者の無軌道な性と反社会的な行動が描かれたことから、センセーショナルを巻き起こし、加えて作家・石原慎太郎の鮮烈なパーソナリティが「太陽族」という用語や「慎太郎カット」といわれた新しい流行を生み出した。翌年公開された『太陽の季節』にはじまる映画化作品は、「太陽族映画」と呼ばれることになるのだが、内外の強烈な批判にさらされ、わずか半年あまりで潰えることになった。だが、「太陽族映画」が投げかけた波紋は小さくなく、本作を映画化した当時の日活は、後に国民的スターとなった石原裕次郎を生み出し、日活躍進の契機となってゆく。本発表では、映画界の反応、興行成績、映像表現の変化といった当時の資料を渉猟しながら、石原文学から派生した「太陽族映画」が、日本映画界にいかなる再編を促したのかを考察してゆきたい。

女性文芸映画というジャンル ―1960年代日本映画の変容について―
中川 成美

 1960年、日本の映画産業はそれまでの最高製作本数547本を記録した。しかし、以後テレビの普及とともに急速に退潮していった。60年代における映画産業の衰退はそれまで伝統的に安定した観客動員を果たしてきた女性文藝映画というジャンルにも大きな影響をもたらした。
 1962年に東宝30周年記念映画として企画された『放浪記』は、林芙美子の原作をもととした女性文藝映画である。ただ企画自体は前年に東京芸術座で菊田一夫の演出、脚本、森光子主演で上演された舞台版『放浪記』が興行的に成功したことがきっかけとなっている。脚本は井出俊郎と田中澄江であるが、芙美子の原作と菊田の舞台脚本をあわせて作成された。このことが映画としての密度を削いだことは確かである。成瀬一流の庶民に注がれた視線を縦横に発揮されるであったはずの原作は、菊田脚本の影響を受けてバイアスがかけられ、一人の女性作家の文学的苦闘と飽くなき野心を描く女性奮闘記となってしまった。この女性像は、やがて1964年のNHK朝の連続ドラマ『うず潮』となって大衆的な人気を獲得することとなる。1920年代以来映画の観客動員を促進してきた女性文藝映画はまさしくこの時期に変換して、あらたなメディア媒体による「大衆性」の発見が試みられたと言えよう。その意味で映画『放浪記』は過渡的な文芸映画の特徴と、新たな表現様式の模索が同時に行われた作品として考察することが出来る。
 1960年代に観客の嗜好は変化し、従来の女性文藝映画の枠組みでは満足しきれない新たな層が登場した。テレビの発達とともに受像機の保有比率があがり、1961年のは受信契約数が49,5パーセントとほぼ国民の半数になり、1962年には64,8パーセント、1964年の東京オリンピック時には83,0パーセントに跳ね上がった。それに反比例して映画観客動員は低下の一途をたどり、1958年のピーク時の11億人が1963年には5億人とほぼ半数となってしまっていた。美しい映画スターが文学作品を中心とする文芸映画でスクリーンを飾る映像は、テレビの直接的な生活への介入によって現出する気安さとは遠いものとして認知され、わざわざ映画館まで足を運ぶ欲望を減じさせていったのである。だからといって映画スターが「醜女」の装いをしてリアリティーを持って接近をはかることへは抵抗感があると観客は反応した。この時期のこうした矛盾に込められている意味は重要な日本映画史の屈折点として認識するべきであろう。
 翌年、日活で今村昌平は女性文芸映画が常套的にその枠組みとした女性一代記の形をもって『にっぽん昆虫記』を発表した。主演した左幸子のバイタリティあふれる主人公像の造型は圧巻であり、セックスシーンの過剰な宣伝もあって興行的にも大当たりした。この年のキネマ旬報はこの作品をベストテン1位とした。いわば、それまで文芸映画が好んで取り上げてきた女性の苦難に満ちた一生を描くという枠組みを用いて、田舎育ちの女主人公が時代の趨勢にながされるままに売春婦となって一時の成功を手中にしながら加齢による凋落を味わうという苦いストーリーは、左の熱演もあって新しい映像を創造した。左はこれによってベルリン映画祭の主演女優賞を受賞、国際的にも今村は認知・評価された。また脚本は今村と長谷部慶治が担当したが、オリジナル脚本であるものの、長谷部はそれまでに市川崑と組み、『こころ』(1955年、夏目漱石原作)や『処刑の部屋』(1956年、石原慎太郎原作)、『炎上』(1958年、三島由紀夫金閣寺』を原作とする)、『鍵』(1959年、谷崎潤一郎原作)などを執筆してきたいわば文芸映画の手だれの脚本家であったことに留意したい。市川崑が文芸映画の枠組みを大胆に援用しながら大作を発表し続けたことと、この今村との接点に長谷部を介在させながら考えていくと、田中澄江、井手俊郎という旧世代の脚本家から長谷部への移行によって変化した映画環境は、60年代のメディア媒体と受容者の変質ともとらえられることができるが、だが一方に50年代からの女性文藝映画の変奏ともとらえられ、その結節点の解釈について上記する二作品を中心として、演出、脚本、主演女優の分析から考えてみたい。

カリガリからドクラ・マグラへ
佐藤  泉

 夢野久作の一九三五年の作品『ドグラ・マグラ』は、一九一九年のドイツ映画『カリガリ博士』の構造と本質的な類縁性をもっている。のみならずその多彩な文体レパートリーのなかには「活動」「シナリオ」の言葉が組み込まれており、作者はみずから映画から文学への影響を示しているかのようである。そして八八年に松本俊夫によって映画化されていることもあわせて考えると、この複雑な作品が文学と映画の間を一方向的にではなく繰り返し往還してきたことがわかる。夢野久作自身も一九二六年にこの映画を見ていることが日記に記されているため、ここには「直接の影響」を認めることができる。ただ、一つの重要な作品が、別の重要な作品に「影響」を与えたとして、そこではどんなことが起こっているのか、またそれをどのようにして考察したらいいのか、こうした「批評」の問題は依然として難しい。ことに映画と文学という異なるジャンルの間の「影響」、また言語文化を別にする社会の間での「影響」を理解するとなればその困難はより拡大することだろう。だが同時に、影響という概念の曖昧さが批評を豊かにしてきたこともまぎれもない事実である。
 たとえばS・クラカウアーの名著『カリガリからヒトラーへ』は、『カリガリ博士』をはじめとする戦間期ドイツの卓越した映画作品を材料に、ワイマール共和国崩壊にいたる一時期の社会心理を細やかに分析した。四七年に亡命先の米国で刊行されて以来、賞賛と批判とをともに集めたこの批評は、現在の私たちにもファシズムの不吉な徴候がいかなるものであるかについて多くの示唆を与えてくれる。批評は、一つの作品に新たな意味の厚みを与えるだろう。そのように生まれた厚みとともに他の文化に対する「影響」の概念を考えることは可能だろうか。『ドグラ・マグラ』を材料に考察したい。