現代日本〈映画-文学〉相関研究会

Studies in Correlation between Modern Japanese Cinema and Literature

第5回 現代日本〈映画-文学〉相関研究会開催のお知らせ(終了)

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【研究発表】

獣肉に憐れみを ―女を装う〈盲獣〉と〈陰獣〉―
北海道大学大学院博士後期課程     井川 重乃
安部公房原作映画『友達』試論
信州大学助教     友田 義行
大江健三郎の映画観 ―『美しいアナベル・リイ』論―
福島大学准教授     高橋 由貴

【講演】

カレル・ゼマン宮崎駿
専修大学准教授     米村みゆき

  • 米村みゆきに聞くジブリ・アニメの魅力

聞き手         中村 三春

(発表要旨は「続きを読む」をクリック)

(付記)

  • 当日9時より、同会場にて、2014年10月25日フランス・パリの日本文化会館において開催するワークショップ「川端康成作品の映画化をめぐって」の内部検討会(プレ発表)を行います。
  • 参加ご希望の方には検討会のプログラムをお送りします。ご希望の方は、氏名・所属を添えてTwitterのDMまたは研究代表者へのメールでお申し込みください。
  • Twitterのアカウントは右欄に表示しています。研究代表者のメールアドレスはこちらに記載されています。


【発表要旨】

獣肉に憐れみを ―女を装う〈盲獣〉と〈陰獣〉―
井川 重乃

 市川崑の『犬神家の一族』(1976年)を頂点とする日本におけるミステリ・サスペンス小説の映画化ブームのなかに増村保造『盲獣』(1968年)、加藤泰江戸川乱歩の陰獣』(1977年)はある。1960年代後半から日本映画は斜陽をむかえ、日活や大映の倒産をはじめとした映画産業全体の生産・流通の縮小を余儀なくされた。映画という娯楽(スペクタクル)の凋落、そして新メディア・テレビの急成長、このような視覚文化の大きな変容が起こりつつあるとき、映画の、そして監督たち自身の生き残りを賭けた戦い(映画製作)について、加藤泰増村保造を取り上げて検討したい。両者ともすでに「巨匠」と呼ばれ多くの映画を製作していたものの、当時の日本映画界を取り巻く厳しい状況のなかで、どのように映画を撮り続けていたのか。本発表では当時の社会的背景を踏まえつつ、映画が製作される過程を、原作小説、脚本、映画、という三つの段階に分けて考察したい。

安部公房原作映画『友達』試論
友田 義行

 安部公房が1951年に発表した小説『闖入者』は、1967年に戯曲『友達』となって青年座で上演され、さらに1974年に改訂されて安部公房スタジオでも上演された。そして1988年にはスウェーデンの映画監督シェル―オーケ・アンデションによって映画化されている。
 40年近くにも渡って、ジャンルと国境を越えて改作されていったこの作品の変貌を、『他人の顔』や『燃えつきた地図』といった安部公房の他作品や、勅使河原宏監督の映画とも比較しながら捉える。
 他方、連合国軍による占領や、六全協における暴力革命否定、さらに明治百年祭に象徴される共同体意識の復活など、戦後日本の社会的・政治的動向がどのように作品と呼応しているか。それが海外で映画化された際にどのように変奏されているかを追求したい。

大江健三郎の映画観 ―『美しいアナベル・リイ』論―
高橋 由貴

 小説『臈たしアナベル・リイ 総毛立ちつ身まかりつ』(2007年)は、「It’s only movies, but movies it is! Kenzaburo」という帯が添えられている。またこのプロットは、監督・脚本・キャストも決定して成城の大江邸で打ち合わせまで終えながら、幻となった映画『万延元年のフットボール』の製作プロセスを下敷きにしたものである。このテクストの背景には様々な映画が存しており、映画と演劇と小説とがせめぎ合う内容となっている。
 大江は映画について、例えば、人間関係がおこなわれない「孤独」に適したジャンルであると述べていた。あるいはマリリン・モンローを取り上げ、フィルムの中と現実生活とで存在を分裂させる映画女優のあり方について論じていた。
 本発表では、これら大江の映画観を概括した上で、「美しいアナベル・リイ」への解題も含めて、大江が企むこの小説の「新しい形式」について考察したい。

カレル・ゼマン宮崎駿
米村みゆき

 チェコのアニメーション監督、特撮映画のカレル・ゼマン(1910―1989)は、その映画『盗まれた飛行船』 (1967) 制作にあたり『十五少年漂流記』を取り入れるなど、ジュール・ヴェルヌの影響が強い。宮崎駿も『天空の城ラピュタ』(1986)の映画パンフレット等でヴェルヌについて言及している。ゼマンと宮崎映画にみえる冒険心や想像力を見る限り、両者の志向性など共有する部分が多い。SFや特撮のブームを文脈に入れつつ、両者を比較、検証してゆきたい。