現代日本〈映画-文学〉相関研究会

Studies in Correlation between Modern Japanese Cinema and Literature

第7回 現代日本〈映画-文学〉相関研究会のお知らせ(終了)

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【研究発表】

映画『リング』シリーズの成立 ―『女優霊』を手がかりに―
北海道大学大学院修士課程    本田みなみ
勅使河原宏監督『サマー・ソルジャー』試論 ―安部公房の残響―
信州大学助教          友田 義行
スリラー時代の二重の顔 ―1960年前後の事件と人間―
北海道大学大学院助教      川崎 公平


【ラウンドテーブル】


1) 今井正監督『夜の鼓』と原作・近松の『堀川波鼓』

北海道大学大学院教授      中村 三春

2) 里見とんによる映画の〈脚色〉・〈演出〉

東京工業大学助教        宮本 明子
※里見とんの「とん」は弓偏に淳の旁

3) 『伊豆の踊子』をめぐるメディア・ミックス ―いかにして国民的映画となりえたのか―

都留文科大学准教授       志村三代子

4) 文芸映画の予見性 ―文学を可視化するということ―

立命館大学教授         中川 成美

5) 『獄門島』『砂の器』と昭和ノスタルジア

甲南女子大学准教授       横濱 雄二

6) 「アニメ」をめぐる研究状況 ―漫画という〈原作〉―

専修大学教授          米村みゆき


【ディスカッサント】

映画と文学の相関に関するコメント
甲南女子大学非常勤講師     萩原由加里

(発表要旨は「続きを読む」をクリック)

【発表要旨】

映画『リング』シリーズの成立 ―『女優霊』を手がかりに―
北海道大学大学院修士課程    本田みなみ
 1991年に鈴木光司による小説『リング』が出版され、その7年後に監督中田秀夫・脚本高橋洋によって映画化された。映画『リング』を境に日本のホラー映画は「ジャパニーズ・ホラー」という名を得て日本のみならず国外をも席巻していくこととなり、「日本映画の主力はホラーかアニメか」と謳われるまでになった。その中でも原点とみなされる『リング』は続編やリメイク作品なども非常に多く、一大シリーズとして特異な成立を見せている。
 本発表では原作である小説『リング』と映画『リング』シリーズの諸関係を分析することで、小説『リング』が辿った映画化のプロセスを検討し、映画『リング』の構造分析に接続を図る。さらに映画『リング』の〈原作〉として参照されるべき作品として、中田・高橋コンビの前作品である『女優霊』(1996)を分析の軸に加えることで、映画『リング』が持つ構造をより精細に追究したい。

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勅使河原宏監督『サマー・ソルジャー』試論 ―安部公房の残響―
信州大学助教          友田 義行

 1960年代、原作者・脚本家としての安部公房と、演出者としての勅使河原宏は、約二年間隔で劇映画作品を発表してきた。しかし、1968年劇場公開の『燃えつきた地図』、1970年大阪万博公開の『1日240時間』を最後に、二人の協働映画は実質的に終わりを告げる。その後、1972年に勅使河原は、ジョン・ネースンの脚本で『サマー・ソルジャー』を発表する。この作品をそれまでの安部との協働作と比較考察するために、本発表では基礎的な情報を整理するところから始めたい。協働解体の理由と新規の展望、勅使河原プロダクションの戦略、勅使河原とネースンと安部の関係といった製作以前の状況から、幽閉・自由・失踪といったテーマの継承/変形や、ドキュメンタリー的手法の効果、同時代文学との比較までを視野に入れたい。

戦後前衛映画と文学: 安部公房×勅使河原宏

戦後前衛映画と文学: 安部公房×勅使河原宏

スリラー時代の二重の顔 ―1960年前後の事件と人間―
北海道大学大学院助教        川崎公平
 1950年代末から60年代前半にかけて、文学と映画をともに巻き込みながら前景化した領域のひとつに、「スリラー」がある。当時「ミステリー」や「推理小説(映画)」とほぼ外延を等しくしていたこのジャンルは、とりわけ松本清張アルフレッド・ヒッチコック(なかでも『ヒッチコック劇場』)を牽引役として、大きなブームとなった。そして同時に「スリラー」は、批評的言説において、「事件」や「恐怖」によって現代的な「人間」や「現実」のありようを示しうるものとして捉えられてもいた。いわば「現代」に見合ったジャンルとして求められていたわけである。本発表では、「スリラー」や「推理もの」をめぐる言説を整理し、そこに現れている「人間」や「世界」の把握の仕方を確認した上で、個々の作品がそうした「現代的」な「人間」の問題をいかに多様に表現し、あるいはそこから逸脱しているかを、とくに「人間の二重性」という観点から分析する。松本清張原作作品や明確に「スリラー」的な作品だけでなく、松竹ヌーヴェル・ヴァーグ増村保造成瀬巳喜男の作品なども取り上げたい。

黒沢清と“断続”の映画

黒沢清と“断続”の映画

【ラウンドテーブル】

1) 今井正監督『夜の鼓』と原作・近松の『堀川波鼓』

北海道大学大学院教授      中村 三春

 姦通を犯した妻は、「夫の刀の先するはいかゞかとは存ずれども。是は我が身の言訳なり許して下され是御覧ぜと。胸押開けば九寸五分肝先に切羽まで。刺通してぞゐたりける」と、陰腹を切っていた。この原作と、生命に溢れる妻が、自害をためらい、夫に切られる映画のいかに違うことか。本発表では、映画『夜の鼓』(1958)の方向性を映像表現と今井作品の系譜に重点を置いて分析し、併せて、溝口、内田、篠田と続いた戦後の近松原作映画の動向を検証してみたい。

2) 里見とんによる映画の〈脚色〉・〈演出〉

東京工業大学助教        宮本 明子

 里見とんが、映画『早春』(1956年)準備稿の台詞およびト書きに加筆修正を施した痕跡がうかがえる「『早春』修正入台本」について、調査中であった(1)加筆修正の種類(2)その傾向を報告する。内容面では、加筆修正の指示が、台本上の〈演出〉にも及んでいる特徴を指摘できる。このほか、里見が映画の制作に関与した事例として挙げられる『生ける椅子』(1945年)の製作経緯も参考としながら、里見と映画の関わりについて整理する。(里見とんの「とん」は弓偏に淳の旁)

3) 『伊豆の踊子』をめぐるメディア・ミックス ―いかにして国民的映画となりえたのか―

都留文科大学准教授       志村三代子

 『伊豆の踊子』は、1933年にはじめて映画化されて以来、5度のリメイクを繰り返すことで、国民的映画として認知された作品である。本発表では、それぞれの『伊豆の踊子』の製作背景、主演女優、映画会社、宣伝、批評といった映画史的な観点を導入し、映画化が、川端康成の名声を一層高めると同時に、新進スターの登竜門としての役割を果たした点に注目することで、『伊豆の踊子』をめぐるメディア・ミックスの変遷とその特徴を考察する。

4) 文芸映画の予見性 ―文学を可視化するということ―

立命館大学教授         中川 成美

 すぐれた、あるいは凡庸であっても、文学を映画化した作品にはある種の作品解読の予見性が含みこまれている場合が往々にしてある。並木鏡太郎「樋口一葉」、成瀬巳喜男浮雲」、市川崑「こころ」などをとりあげて、そこにある作品分析の諸相を考察して、なぜこのような予見性が出来するかについて考えたい。

5) 『獄門島』『砂の器』と昭和ノスタルジア

甲南女子大学准教授       横濱 雄二

 市川崑の『獄門島』、野村芳太郎の『砂の器』とも、原作小説には含まれないあるいはわずかにしか描かれない要素である、日本の風景のなかを彷徨する親子を描きだしている。特に市川崑一連の金田一ものにおいて、季節の風景を描く意図があった旨を発言している。このような視線のあり方は、日高勝之が近年の映像作品を分析して批判的に提起した〈昭和ノスタルジア〉と類比しうる。本報告では以上を踏まえ『獄門島』『砂の器』を〈昭和ノスタルジア〉の観点から検討する。

6) 「アニメ」をめぐる研究状況 ―漫画という〈原作〉―

専修大学教授          米村みゆき

 日本のアニメーションに関する評論および研究は、様々な関心のもと、多領域からなされてきたが、なかでも日本で最初の連続テレビアニメーションである『鉄腕アトム』(1963~66年)についての研究は、一定の蓄積がある。同作が制作されるときに採用されたリミテッド・アニメーションの手法は、研究史上否定的な側面が強調されることが少なくなかったが、〈原作〉が漫画であったことに着目するとき、実写映画とは異なる評価軸が見えてくる。本発表では、漫画という〈原作〉が同作において、そしてまた、日本のアニメの受容史において、何をもたらしてきたのか、検討する。